日本のマスコミとは比べ物にならないくらいに親日だった戦争記念館

 捕鯨関連はこちらでは有力な情報がなかなか手に入らないので当分の間は休止しようかと考えています。申し訳ありません。(^^;)。しかしながら、南方の豪州に滞在し始めて早一年が過ぎようとしています。もうあと一年でこの御国とおさらばとは早いもので、たまった話をここでまとめてみようかと思います。

 さて、海外滞在の第一弾として戦争記念館を掲げようかと思います。近年もまた、マスコミらが国内の靖国神社について馬鹿騒ぎをしておりますが、これらのお方は豪州の戦争記念館についても「戦争賛美だ」「戦犯が云々」なんていい始めるのでしょうかね?それだったら大した者だと思いますが、事実上宣戦布告のようなものなので、ほめられたものではないということに変わりはありません。

 さて、豪州の戦争記念館は首都キャンベラにあります。シドニーからバスで西へ片道3時間ほどでいけますので、シドニーからの日帰りも可能です。もっとも、この計画は誤算そのものであることが戦争記念館について思い知らされることになりましたが。この戦争記念館には豪州建国以来に豪州が参加した戦争についての説明とそれに纏わる戦史や豪州やその同盟軍、および敵国として戦った国の兵器も展示されております。そして当然、陸海空軍および豪州軍が参加した各戦闘の記念碑が立てられています。写真は朝鮮戦争の記念碑です。P1010158b

 今回ここを訪れた理由はこの記念館に昭和17年、シドニー湾に停泊する米豪連合軍の艦隊を攻撃するために進入し、散華された日本海軍の特殊潜航艇が展示されているという情報を得ていたからです。以下のHPにも詳しく書かれていますがシドニー湾で戦死した特殊潜航艇の乗組員に対する勇気を称えようと当時の豪軍司令官グルード少将が海軍礼装を行い、乗組員の遺骨が戦時中であるにも拘らず日本に輸送したことは戦時中の日豪を語る上であまりにも有名な話であったりします。

特殊潜航艇 戦史 シドニー湾攻撃http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/toku-matuo.htm

 南半球ですので当然、今の時期は冬なのですがキャンベラもシドニーを予想以上に寒く、当写真を見ればわかるかと思いますがまさしく冬という感じで気温も10℃くらいととても長袖のトレーナー一枚では耐えられるものであありませんでした。つくづくオーストラリアというと「熱帯」というイメージが強かったのですがつくづく読みがあまったのだと思わざるをえません(--;)P1010151b

 寒さに耐えながら戦争記念館に通じる大通りに到着。どちらかというと靖国神社の参道に似ていますがかなりだだっ広く、自動車道となっているところに違いがあります。そして記念館の正面にある碑ですが写真でもわかるとおり、日本語に訳せば「今後も彼らの名は永遠に生き続ける」と刻まれています。P1010170b
そして記念館へ入ろうとすると小学生から中学生の子供たちが集団で見学のために訪れていました。これが日本だったらどうなるのでしょうね?靖国神社の近くにも学校が幾つかあったと思いますが、このように遊就館に集団で見学に来る学童はいままで見たことがありません。広島や長崎の原爆資料館とはずいぶん対照的だったのを覚えています。P1010171bそして中に入ると寄付金が置かれていています。神社でいう賽銭箱というやつでしょうか。もちろん、手を合わせて願うところでもありません。そして戦争記念館への入館料は無料です。実はここで記念館の係員に当記念館で展示されているシドニー湾に突入した特殊潜航艇および、日豪そのほかの戦闘について見学しに来たという目を説明したところ、驚く事にガイド付きで説明、案内してくれるということになりました。P1010172b

ガイドさんの説明は丁重に日豪について説明してくださり、潜航艇にとどまらず、零戦の優秀性(驚いたことにそこには日本海軍航空隊の零戦搭乗員であり撃墜王でもある坂井三郎の登場していたとされる零戦も復元されて展示されていた。さらに驚くことにガイドさんは坂井三郎の戦史まで詳しく知っていて私に教えてくれた。)当時の日本が置かれていた現状(ABCD包囲陣によって封鎖されたこと、第一次大戦での英豪への協力など)、さらには捕虜や占領下での帝国日本軍と豪州人とに関する史実。どの話にも中朝韓の主張する「反日」など微塵もなく、そこにはあらたな豪州の日本軍に対する敬意と海外から見た大東亜戦争を知ることができたと思います。

P1010235b

よく、捕虜処刑としてあげられる写真がありますが、ガイドさんの説明によると、この処刑された豪州兵はスパイであったということです。スパイ行為の場合は捕虜の扱いを受けることができず、処刑の対象となり、日本も日露戦争の時にラマ教徒に扮装した日本軍人がロシア軍につかまり、処刑されています。この写真の豪州軍軍曹、レン・シフリートは日本兵、ユノメ クニオで戦死した日本軍将校の遺物から発見されたのがその写真であり、クニオ氏の日記に書かれた内容とも一致していたために戦後、「戦犯」として処刑されたとのことです。ガイドさんによるとシフリート軍曹を処刑後、彼の埋葬地に花を据えたのもクニオ氏であり、軍曹の勇敢さを称えたとのことです。ガイドさんの説明で幾分か自分が救われたような気がしてなりませんでした。P1010242bと同時に異国の地で無念の死を告げたのはなにも日本人だけではないのだとも改めて認識させる出来事でもありました。戦後、軍曹の戦没場所を遺族らが探索しましたが現在になっても確認されていないとのことです。

そして、いよいよ特殊潜航艇ですが、この潜航艇は戦闘終了後に引き上げられた2隻の後半分と前半分を繋ぎ合わせて復元されたもので中心部分の真下に大きな穴が作られていて下から内部を見ることができます。展示場所が映像を写して当時の戦闘を説明する映写展示室なのでかなり暗く、さらに特殊潜航艇も黒色なので写真ではわかりにくいかと思われますが、特殊潜航艇は記念館での最も重要な展示物として扱われていました。この特殊潜航艇についての説明も映像、音声付で靖国神社の遊就館での日露戦争の説明顔負けの大演出でもありました。P1010245b

このほかにも日豪両軍の激戦地となったココダ道の戦いやそのほか、豪州から見た大東亜戦争の展示を見学したあと、シンガポール占領下での豪州民間人についての展示がありました。ガイドの説明によれば、シンガポール陥落後、豪州人も日本軍占領下の元で収容所に入れられたのですが、そこでは生き別れとなった豪州軍の家族が収容所ないで物質不足と文通、流通の制限のした、手紙の代わりにキルトにメッセージなどを縫うことによってお互いの安否を確認したとのことです。そして、その一部は日本軍にも送られ、ある形での交流もあったとのことです。占領下での収容所のなかで日本軍にも話のわかる人がいたからこそ生まれた交流であり、これもまた初めてしる、連合軍から見た日本軍像でもありました。写真は現存する収容所ないで女性らがつくったキルトです。P1010248b

さらに驚くことに日本軍の神風特別攻撃隊の遺書まで展示されていました。もちろん、英語に訳されています。
P1010236b

また、戦後の「戦争裁判」と「戦犯」についてもかなり客観的で無罪であるにも拘らず、有罪と認定されて処刑されたという説明までされています。現在「戦犯云々」で首相の靖国神社公式参拝になん癖をつけているマスコミはこれをどう説明するのでしょうか?さらには原子爆弾の投下も当事者ではないのか、説明も「戦争を早めるための必要な手段であったか、それとも違法行為であったのか現在も論争中である」とこれまた客観的で被爆者の悲惨な写真や破壊された町の残上まで映像つきで展示されていました。それを食い入る様に見ていた豪州の少年の姿はこの原爆に関する展示とあいまってかなり印象的な出来事でした。P1010223b

最後に、豪州記念館で短時間であるにも拘らず、細かいところまで説明してくださったガイドさんには大変感謝いたします。また、シフリート軍曹、およびヒノメ氏の説明をする際、まちがった知識を言ってしまって申し訳ありませんでしたm(_)m。知識があってもこういった常識を踏み外してしまう行為をみるとやはりまだまだ、未熟者なのでしょう。さらに他国といえど、かつての敵国といえど、自国を守るために命がけで戦ったのはなにも日本に限らず、それは他国も同じであったこと。そして悲惨な戦闘を経験したのもまた、日本だけではなかったこと。これら英霊に対する敬意を払うというその精神が自分にはまだまだ足りなかったなと改めて思いました。また、記念館の一部のみしか見学できなかったのも今回の旅行の失敗だったと思います。次回は一日かけて豪州の戦史を見学してみようかと思っています。

最後は戦争記念館を正面から移した写真と、戦争記念館から見た参道の写真を展示しておきます。P1010259b

P1010258b

祖国を守るために立ち上がり、そして散っていった英雄よ、永遠に(合掌)

おまけ

玉砕は日本軍の専売特許にあらず、緒戦の豪州軍にも見られた行為であり、このため日本軍は米英蘭に苦戦することがなかったものの豪州軍には苦戦し、手痛い損害を受けることになったとのことです。よって豪州軍には特別な敬意を払っていたという話も残っています。

オーストラリア軍の勇戦を讃えた日本軍
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/nikkan_696.htm

昭和十六年(一九四一)十二月八日、大東亜戦争開戦とともに、日本軍はイギリスの植民地であり、アジア支配の一大拠点であったシンガポールをめざしてマレー半島を南下しました。それは破竹の進撃であつて、翌年の一月末にはシンガポールの対岸ジョホールバルにまで達しました。英国軍に所属するオーストラリア軍は、ジョホールバルの東にあるシェマールアンで、必死の抵抗を試みました。 シンガボールの中学二年用教科書(Social and Economic History of Modern Singapore)は、その時の模様を次のように書いています。〈オーストラリア軍は、武装を完全に整えて日本軍に対して戦闘体制に入った。ところがその時、半裸の村民たちは(日本軍に味方して)、オーストラリア軍に敵対してくる事が判った。そこでオーストラリア軍は決死の覚悟を固め、激しい戦闘の果てに二百人がすべて戦死した。この戦によって日本人の戦死傷者は、一千人に達した。日本兵やその指揮官たちは、オーストラリア兵の勇気に感激した。彼らは敬意を表すために、二百人を葬った墓地の上に巨大な木製の十字架を建てた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』と書かれた。〉
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硫黄島攻防戦 春よ、来い 故郷の春を見ずに散った将兵へ

 本年(2005年)は先の大戦終結から60年目を迎えようとしている年であり、当然、大戦末期に巻き起こった激戦、および惨劇が過ぎ去って60年目になろうとしているということでもあります。この前ブログで取り上げた「東京大空襲」もこうした事情によってとりあげました。半世紀以上過ぎて、生存者が一人また一人と亡くなられる本日の現状において、その証言を我々に直接伝えてくれる御方々が少なくなってきており、最悪の場合は歴史に亀裂が生じてしまいます。要するに歴史が子孫へと、次世代へと伝えられなくなってしまうということです。

 さて、今回の記事において語る前に、下記の遺書、というより大東亜戦争末期に書き上げた一人の大日本帝国海軍少将から、当時の米大統領ルーズベルトへあてた手紙の内容を紹介いたします。

ルーズベルトに与うる書■ 日本海軍市丸海軍少将、書を「フランクリン ルーズベルト」君に致す。我今我が戦いを終るに当り、一言貴下に告ぐる所あらんとす。貴下は真珠湾の不意打ちをもって対日戦争唯一宣伝材料となすといえども、日本をしてその自滅より免るるため、この挙に出る外なき窮境にまで追いつめたる種々の情勢は 貴下の最もよく熟知しある所と思考す。 卿等は既に十分なる繁栄にも満足することなく数百年来の卿等の搾取より免れんとする是等憐れむべき人類の希望の芽を何が故に嫩葉(どんよう:若葉)に於いて摘み取らんとするや。ただ東洋の物を東洋に帰すに過ぎざるにあら ずや。卿等何すれぞ斯くの如く貪欲にして且つ狭量なる大東亜共栄圏の存在は毫も卿等の存在を脅威せず、かえ って世界平和の一翼として世界人類の安寧幸福を保障するものにして日本天皇の真意全くこの外に出ずるなきを理解するの雅量あらんことを希望して止まざるものなり。卿等の善戦によりよくヒットラー総統を仆(たお)すを得るとするも如何にしてスターリンを首領とするソビエットロシアと協調するをえんや。およそ世界を以て強者の独専となさんとせば、永久に闘争を繰り返し、遂に世界人類に安寧幸福の日なからん。卿等、今、世界制覇の野望一応将に成らんとす。卿等の得意思うべし。しかれども君が先輩ウィルソン大統領は其の得意の絶頂に於いて失脚せり。願わくば本職言外の意を汲んで、その轍を踏むなかれ。

 これは硫黄島において、市丸利之助 大日本帝国海軍少将がルーズベルトに当てた手紙として戦死される前に書かれた内容です。少将の手紙は的を得たものであり、事実、米国を含む連合軍が日本降伏させた後に得たものは「冷戦」という共産主義との長年にもおよぶ戦だったのです。この代償として連合軍は朝鮮戦争で多大な犠牲を強いられ、さらにはベトナム戦争では多大な犠牲を強いられてしまうと同時に敗北という汚名まで着せられてしまいます。また、大東亜戦争後までは欧米は東洋の大半の領域を植民地支配に置き、東洋の一国であった日本はこの帝国主義の世界とさらには朝鮮戦争やベトナム戦争でも見られる、共産主義による強勢にも立ち向かわなければならない状況に置かれていました。そのような状況のした、大東亜戦争が始まったのです。

 そして、大東亜戦争末期、日本は絶対国防圏がマリアナ諸島陥落によって崩壊し、制空権、制海権は崩れ去っていきました。そして日本本土爆撃への基地として地理的に最も適した島である硫黄島を巡って日米両軍の激戦がこの島で始まったのです。時は昭和20年2月19日のことでした。日本軍の兵力は2万2千であるのに対し、米軍は7万5千、そして当然、所有する武器の性能、物量とも明らかに米軍が上回っていました。米軍は当初、硫黄島は5日ほどで陥落すると考えていたようですが、栗林忠道 大日本帝国陸軍中将指揮する日本軍は硫黄島の地形を巧みに利用し、米国は予想外の大苦戦を強いられました。また、上陸支援のために周辺にとどまった艦艇にも空からは特攻機による攻撃が集中し、海中からも人間魚雷、回天の攻撃が米軍を物理的に、そして精神的に悩ませました。

 この激戦の間も日本は制海権、制空権を米軍に奪われつつあり、本土からの海路、空路を利用した補給、輸送も思うようにならなかっか状態でした。戦車兵団を輸送する再にも輸送船が撃沈され、兵員は助かったものの肝心の戦車など、そのほかの武器、重要物資が海中に沈んでしまったという悲劇も少なくありませんでした。一方、米軍はその圧倒的物量によって島の日本軍陣地をつぶしていき、日本軍は次第に追い詰められる形となりました。

 そして、昭和20年3月17日、司令官 栗林中将は本土宛に訣別の電文の送ります。硫黄島での攻防戦では持久戦が行われ手いたので玉砕戦ではありませんでした。しかし、圧倒的な物量の前に次第に追い詰められた結果、決別の電文を打つまでにいたったということです。

「戦局最後の関頭に直面せり。敵来攻以来麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭かしむるものあり。 特に想像を越えたる物量的優勢をもってする陸海空よりの攻撃に対し、苑然徒手空拳を以って克く健闘を続けたるは小職自ら聊か悦びとする所なり。 然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ為に御期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは小職の誠に恐懼に堪えざる所にして、幾重にもお詫び申し上ぐ。今や弾丸尽き水涸れ全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方(あた)り、熟々(つらつら)皇恩を思ひ、粉骨砕身も亦悔いず。特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるに思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。茲(ここ)に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝すると共に、只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永へ(とこしえ)に御別れ申し上ぐ。 尚、父島、母島に就ては同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも断固破摧し得るを確信するも何卒宜しく御願い申し上ぐ。

終わりに左記(原文は縦書きのため)駄作御笑覧に供す。何卒玉斧を乞ふ。

左記

国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生まれて矛を執らむぞ
醜草(しこくさ)の島に蔓る(はびこる)その時の 皇国(みくに)の行手一途に思ふ

                                     栗林中将」

 この日を最後に日本軍の組織的抵抗は終わります。しかし、このあともゲリラ戦においてなんとか日本軍は抵抗を続けつつ、死んでいきました。硫黄島は小笠原諸島に位置する離れ小島であったとはいえ、沖縄とおなじく本土決戦の魁となりました死者は軍人、軍属に留まったものの沖縄同様に激戦が繰り広げられたという史実には変わりありません。そしてこの時期は2月下旬から3月中旬にかけてのことであり、日本ではこの時期はちょうど冬が終わり春が訪れる直前の季節でもあります。日本の春はそれまでの寒く、厳しい季節が終わって気温が暖かくなり、桜を初めとする様々な植物が開花し始め、生物も冬眠などから覚めて活動を始める時期でもあり、また、人々も花見など、野外での活動が増え始める季節でもあります。新学期など、新しきことが始まる季節とも言え、どことなく四季の中でも「めでたさ」と「開放感」を感じさせる季節でもあります。

 この故郷の春を見ずに散った将兵は硫黄島では国籍問わず数多く、祖国の訪れる春を思い散っていたその気持ちはどういうものであったのでしょう。故郷を想い、家族を想い、そして国を想い散っていった将兵は60年後のこの春を靖国で、そして故郷で魂となって見守っていることを願いつつ、遅れならがらも訪れはじめた春の暖かさを感じ、裂き始めた桜を見ては防人たちの活躍に敬意を表すと同時に冥福を祈り続けます

参考文献

海軍少将・市丸利之助~硫黄島よりルーズベルトへの手紙
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog185.html

春よ、来い
http://www.geocities.jp/napowhis/haruyokoi.swf
(注 上記のURLがクリックで見れない場合は上記のURLをコピーし、アドレスにペーストしてくださるようお願いいたしますm(__)m

なぜ日本は戦ったか③
http://www.page.sannet.ne.jp/yukihiro-i/teikoku/shiryoukan/history3.htm

硫黄島戦
http://iwojima.okigunnji.com/index.htm

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続・東京大空襲 60年前の悲しき悲劇

 
 空襲に関しての私の意見を言わしてもらいますが、その前に国際法の権威、パール判事が原爆の犠牲者に向けて彫られた言葉である『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』という言葉を読んでから発言された感想を引用しましょう。

「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」

 ということです。東京大空襲もそうですが、なにも米国への恨みを忘れるなという意味ではありません。この空襲を行ったのは紛れもなく、米国であり、米国はこれについて反省も謝罪も、そして責任も行っていないという事実を伝えたいだけのことです。そのために、戦争そのものに責任を置き換え、米国に対してなにも書かれないのは明らかに「史実の捏造」そのものであることに代わりはなく、史実の風化を助長していることに代わりはないということです

 さて、ここでは私の祖母の話を述べましょう。祖母はその日(昭和20年3月9日)、たまたま祖母の父(私の曾祖父、以下、曾祖父)とともに疎開先から東京に帰宅しておりました。その夜、浅草の自宅から空襲警報を聞き、外を見ると深川、方面および、周囲はすでに大規模な炎で覆われていたとの事です。荷物を積んだトラックに曾祖父と共に乗車して避難を始めるも焼夷弾によってトラックは炎上してしまいやむなく放棄し、このときにアルバムをはじめとする祖母の家族の財産の多くが失われました。当初は隅田川への避難を試みるも時すでに遅く人ごみによって川への到達が無理であり、避難先を上野の山へ変えてそこに避難して生き延びたということです。

 避難場所から見たB-29は操縦士まで見れるほどの低空で飛んでおり、空襲によって生じた火災の炎が反射して赤く染まって綺麗だったということでした。空襲警戒解除後、焼死体や瓦礫をよけながら空襲を逃れた早稲田にある都電車庫に逃れ、そこに停車してあった市電の車両の中で仮眠したということでした。この空襲で残ったのは家の風呂桶(当時では珍しいステンレス製?の風呂桶であった)ぐらいで後は全て焼失してしまったとの事です。また、小学生以来の友人もこの空襲で亡くなり、別の友人はコンクリート製の校舎に逃げ込んだものの空襲の猛煙によって目をやられたとの事。曾祖父は戦時中、町内の消防団長を務めていたそうですが、当時の技術(いまでも無理かな?)では空襲の火災を消し止めることはおろか、勢力を弱めることも不可能ととっさに判断して非難したのが幸いしたということでしょうか。空襲を体験された方がまだ存命で、悲劇を語ってくれるこのことに感謝しつつ、その感謝の気持ちを忘れないためにも悲劇は風化させてはならないし、そのような行為は行ってはならないということです。

都市空襲
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-kusyu.htm

ガラスのうさぎ
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-usagi.htm

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東京大空襲 60年前の悲しき悲劇

 この記事を書いている時刻のちょうど60年前は東京の本所深川をはじめとする下町が米軍の前代未聞の焦土作戦によって大被害を屠っているときです。後に第二次世界大戦中最高の民間人の殺傷を目的とした作戦であり、悲劇ともいえる東京大空襲です。

 この空襲以前にも東京を始めとする日本本土の各地はすでに制空権を奪われる形で連合軍による空爆が繰り返されており、沖縄県にいたっては本土決戦の先駆けの様になってしまいました。いわば日本本土の盾となってしまったわけです。沖縄は事実上戦場となり、東京を始めとする各都市は空襲の強勢にさらされ、これは戦乱が昭和19年のレイテ沖、マリアナ沖、台湾沖の海戦、及び航空戦で事実上制海権、制空権を損失したことにより本土にまで迫りくる形となってしまいました。

 しかし、米軍は日本本土を空襲するときは最初は支那大陸やインドから飛ばしていましたが、これは航続距離の問題で後にサイパン、グアム、テニアンからの攻撃に変更しています。そして、爆撃も工場を目的とした高高度による爆撃を行いましたが本土上空の気流は激しく目標に投下できなかったために効果は想像を下回る結果となってしまったということです。もちろん、日本本土ではそれが大問題となっていることに変わりはありませんでしたが。
 
 そこで、戦果が上がらぬことを理由に(焦土作戦に戦略航空団の司令官が反対していたためとする説があり)、グアムの第21戦略航空団の前司令官が更迭され、新司令官がカーチス・E・ルメイ少将に代わると作戦も昼間の高高度爆撃から夜間爆撃へと変更されます。まず、日本の関東付近では強風がよく吹くことと、日本の民家が燃えやすい木造であったことを理由に通常爆弾から焼夷弾、いわば付近を焼き払う目的でM69焼夷弾の使用を開始しました。これを日本家屋に似せて作った建物(ちゃぶ台など、日本の家具まで用意されていた)でその効果を実験してから使用したとの事です。

 米軍はそれまでの航空偵察写真などで目標を東京西部(現在の墨田区、江東区、台東区)と決定し、3月9日に結構しました。このとき、防衛用の対空機銃を下ろし、かわりに通常搭載する倍の量となる焼夷弾を搭載してB-29を出撃させています。そして、この作戦というのはまず、風が強いこの日の午前0時に目標の東西5キロ、南北6キロに焼夷弾を投下して民間人の逃げ道を塞ぎ、そしてその中心に午前2時までに焼夷弾を集中投下するというまさに、民間人の殺傷を前提とする作戦となりました。

 逃げ惑う民間人は荒れ狂う炎によって生きながら焼かれ、川や、運河に飛び込んで逃げ込む者も強風に運ばれた灼熱の炎に晒された水面上の炎熱によって頭部を焼かれて死に、コンクリート製の校舎に逃げ込む者もこの空襲によって発生した凄まじき炎熱によって苦しんだ挙句に死に、このように多くの民間人が死んでいきました。ある者は親類を、ある者は財産を、ある者はその両方をこの灼熱地獄の中で失い、残るのは焼け野原とその野原を、そして河川を埋め尽くす、灼熱地獄の中で生きながらに焼かれて死に絶えた無数の焼死体であり、生き残った人々は只、それらを見つめるだけでした。この空襲の犠牲によって亡くなられた者の遺体の多くは後に無縁仏として一箇所に埋葬されることとなりましたが、戦後、掘り起こされては火葬され、再埋葬されて現在に至ります。
 
 作戦参加機数は344機、使用焼夷弾2000トンであり、これは一平方メートルに3発の焼夷弾が投下された計算となる。東京都の被害はおよそ10万人の死者をはじめ、負傷者は11万4千人、焼失家屋は約27万戸であり、40km平方メートルが焦土と化し、これは東京都の3分の1が焼け野原となったことになる。

 これ以前にも爆撃によって民間人の死傷者は続出していましたし、偵察?の傍ら投下した爆弾によって民間人が死亡、あるいは行方不明になったという惨劇も繰り返されておりましたが、作戦上、これほど民間人の殺傷を前提として行った作戦は20世紀ではまず、みられません。近代兵器と軍組織という「文明」を極限までに使用した上での「テロリズム」とはまさにこのことではないのかと思います。日本政府のこの惨劇を目の当たりにして米政府宛にスイスを通して国際法違反である目、抗議を行いましたが米政府からはまったく返答がなかったとのことです。
 
 このような空襲を生き残った民間人をはじめとする、日本中に米軍への恐怖がつのり、特攻、玉砕、そして本土決戦への気運がよりいっそう高まることとなったことは言うまでもありません。事実、昭和20年8月の日本軍の降伏と、その年の9月から始まった占領軍の上陸に対して開放感よりも恐怖感、絶望感を多くの日本人がかみ締めていたとのことです。
 
 通常、このような作戦は軍法会議、いや、戦争犯罪として国際法の下で裁かれなければならなかったのですが、悲しいかな、戦後の極東裁判自体、国際法をまったく無視した戦勝国の私刑による魔女裁判そのものであり、占領自体も軍隊の無条件降伏による、国家の条件付降伏を無視してこれまた国際法を無視した不法占領であり、占領期間、米軍のこの行為に関する報道、および著作の出版は禁じられ、それを裏付ける資料の発表ももちろん、禁じられました。しかもこれは悪質なことに国民に対して禁じられていることを知られないために事前修正を行う形で行われておりましたので、国民にその悲劇を語り継ぐ術は占領軍により、完全に閉ざされてしまいました。

 結果は当然のとおり、これら空襲に関与した関係者はまったく裁かれず、また、米国も責任は当然果たさず、代わりに多くの無実であった日本人がろくに取り調べもなされずに処刑、抑留させられる形となりました。

 そして、現在、日本人は大空襲の加害を米軍によるものではなく、戦争そのものに向けているようですが、これは悲劇を語る上では間違っています。事実、戦争は悲惨ですが、その悲惨を招いた加害者に対してなにも追及しないのであればその惨劇はまた、なんらかの形で繰り返されるだけか、風化してしまうだけです。その一例として、戦後に東京大空襲を提案し、実行したカーチス・E・ルメイはその後、反省も謝罪も行わずに逆にノーベル平和賞の受賞者である当時の首相、佐藤栄作から勲一等旭日大綬章を贈られると言う茶番が行われました。

 このような茶番と惨劇を風化させないために、そして史実を語り継ぐためにも戦争そのものに全ての責任を突きつけるという行為は止め、これら空襲でのわが国の犠牲者、戦没者への真の冥福を心から国が祈れる時期を望みましょう。

参考文献、URL

東京大空襲
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-kusyu.t.htm

http://www.qmss.jp/qmss/biography/tokyo-dai-kushu.htm

小林よしのり著 戦争論

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特別攻撃隊が実戦配備された背景

 まず、はじめにこれを引用いたしましょう。
 

父上様、母上様
 西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段お許し下さいませ。
 今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。
 鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき真の御恩に報ゆる事も出来ず征く事を、御許 し下さいませ。
 本日、帝国の為、身を以って母艦に体当りを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に。

満里子殿

 何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対しては誠にすまぬと思って居る
 何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分できている事と思ふ 
 御両親様に孝養を専一と心掛け生活をしていく様色々と思出をたどりながら出発前に記す
恵美ちゃん(妻の妹)坊主も元気でやれ  

 行男

 教え子へ
 教え子よ散れ山桜此の如くに

 昭和19年(西暦1944年)10月25日、神風特別攻撃隊、敷島隊指揮官、関 行男 海軍大尉(戦死後、中佐)が残した遺書です。かれは特攻隊初出撃時の指揮官であり、故郷の松山には老いた母と奥さんがおりました。関大尉は海軍兵学校(海軍の士官養成学校)70期卒業の飛行搭乗員であり、艦上爆撃機の操縦者でもありました。航空機による特攻を行う場合はこの艦上爆撃機の操縦技術が必要であったことからも彼が選ばれたというわけです。

 さて、特攻は戦法としてはあってはならないものであることはかの、特別攻撃隊を編成し、実行した大西滝次郎海軍中将本人も言っていたとおり、事実であってこれまでの戦法としては「決死」はあっても「必死」を前提とした戦法はありませんでしたし、だれも行おうとしませんでした。事実、これを命じられた関大尉自信もこの「戦の外道」といわれる特攻には乗り気ではなかったことは有名で、特攻を命じられてから参加されるまでの間は相当な苦悩があったということは当時、出撃基地であったフィリピンマバラカット基地にいた小野田政 同盟通信特派員の証言からもわかります。

数日間下痢に悩んでいた関は、その日の夕方、マバラカット基地バンバン川の土手で同盟通信特派員の小野田政に会った。関の話しぶりは、特攻攻撃のやり方全般について、それほど気乗りしていない様子であった。関はこう語った。

 「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA[妻のこと、海軍士官の隠語-訳注]のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」

 関大尉は死を覚悟した勇敢な軍人である前に心ある人間であり、たとえ「御国のため」、「天皇陛下のため」といわれてもそれで全てが心から納得するはずもありません。これは特攻隊として戦死した、あるいは日本国民として戦った当時の日本国民の大半がそうだったと思います。

では、特攻隊を指揮した大西中将はどのような気持ちだったのでしょうか。実は言うと、特攻を編成、実行した大西中将はそのまえに軍需省の要職にいました。ここでは各部長からの報告を全て聞いては大臣へは必要なことだけを報告しているので、実情は大臣よりも、また各局長よりも一番詳しく、日本の戦力については良く知っているというわけです。それを述べた上で長官である大西中将の当時の参謀長である小田原海軍大佐が特攻作戦開始前に大西中将から聞いたとされる特攻の真意を説明いたしましょう。これは小田原参謀が昭和19年11月にダバオで特攻隊員であった角田和男氏らに説明した特攻の趣旨についての説明内容です。

特攻の真意 (前略)  長官(注・大西中将)は、『もう戦争は続けるべきではない』とおっしゃる。『一日も早く講和を結ばなければならぬ。マリアナを失った今日、敵はすでにサイパン、成都にいつでも内地を爆撃して帰れる大型爆撃機を配している。残念ながら、現在の日本の戦力ではこれを阻止することができない。それに、もう重油、ガソリンが、あと半年分しか残っていない。  軍需工場の地下建設を進めているが、実は飛行機を作る材料のアルミニウムもあと半年分しかないのだ。工場はできても、材料がなくては生産を停止しなければならぬ。燃料も、せっかく造った大型空母信濃を油槽船に改造してスマトラより運ぶ計画を立てているが、とても間に合わぬ。半年後には、かりに敵が関東平野に上陸してきても、工場も飛行機も戦車も軍艦も動けなくなる。  そうなってからでは遅い。動ける今のうちに講和しなければ大変なことになる。しかし、ガダルカナル以来、押され通しで、まだ一度も敵の反抗を喰い止めたことがない。このまま講和したのでは、いかにも情けない。一度で良いから敵をこのレイテから追い落とし、それを機会に講和に入りたい。

 敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。七、三とは敵に七分味方に三分である。具体的には満州事変の昔に返ることである。勝ってこの条件なのだ。残念ながら日本はここまで追いつめられているのだ。
 万一敵を本土に迎えるようなことになった場合、アメリカは敵に回して恐ろしい国である。歴史に見るインデアンやハワイ民族のように、指揮系統は寸断され、闘魂のある者は次々各個撃破され、残る者は女子供と、意気地の無い男だけとなり、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。このためにも特攻を行ってでもフィリッピンを最後の戦場にしなければならない。
 このことは、一人の判断で考え出したことではない。東京を出発するに際し、海軍大臣と高松宮様に状況を説明申し上げ、私の真意に対し内諾を得たものと考えている。
 宮様と大臣とが賛成された以上、これは海軍の総意とみて宜しいだろう。ただし、今、東京で講和のことなど口に出そうものなら、たちまち憲兵に捕まり、あるいは国賊として暗殺されてしまうだろう。死ぬことは恐れぬが、戦争の後始末は早くつけなければならぬ。宮様といえでも講和の進言などされたことが分かったなら、命の保証はできかねない状態なのである。もし、そのようなことになれば陸海軍の抗争を起こし、強敵を前にして内乱ともなりかねない。
 極めて難しい問題であるが、これは天皇陛下御自ら決められるべきことなのである。宮様や大臣や総長の進言によるものであってはならぬ』とおっしゃるのだ。

 では、果たしてこの特攻によって、レイテより敵を追い落とすことができるであろうか。これはまだ長官は誰にも言わない。同僚の福留長官にも、一航艦の幕僚にも話していない。しかし、『特攻を出すには、参謀長に反対されては、いかに私でもこれはできない。他の幕僚の反対は押さえることができるが、私の参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』
 として、私にだけ話されたことであるが、私は長官ほど意志が強くない。自分の教え子が妻子まで捨てて特攻をかけてくれようとしているのに、黙り続けることはできない。長官の真意を話そう。長官は、特攻によるレイテ防衛について、
『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
 一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
 二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。

 陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたならば、いかなる陸軍でも、青年将校でも、随わざるを得まい。日本民族を救う道がほかにあるであろうか。戦況は明日にでも講和をしたいところまで来ているのである。
 しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。講和の時期を逃してしまう。敵に対しては飽くまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておらねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
 大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられた時、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員たちの後を追うであろう。
 もし、参謀長にほかに国を救う道があるならば、俺は参謀長の言うことを聞こう、なければ俺に賛成してもらいたい』

 と仰っしゃった。私に策はないので同意した。これが私の聞いた長官の真意である。長官は、『私は生きて国の再建に勤める気はない。講和後、建て直しのできる人はたくさんいるが、この難局を乗り切れる者は私だけである。』と、繰り返し、『大和、武蔵は敵に渡しても決して恥ずかしい艦ではない。宮様は戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しいと仰せられた』とまで言われたのだ」

この説明を読めば、当時の日本のおかれた状況がわかると思います。長くなりすぎるので更なる説明は省きますが、当時、日本が総力戦に突入していった背景にはこのような状況でのことであって、特攻隊もこのような背景から生まれたものでした。特攻には大学、専門学校を繰上げ卒業して軍に入隊した学徒兵も大多数に上り、参加しています。本来軍人になることも、軍隊に入隊することも考えていなかった彼らはその築き上げてきた自分自身とこれからの自分の将来をすべて捨てての行為であり、現在の誰もがこれをできないでしょう。いまでいう自殺とはあきらかに違うものです。

その彼らが苦悩の末、自分の家族を、故郷を、そして国を守るべく特攻隊として散ったわけですが、彼らとて何も知らないわけではありません。それは死線を超えた上での私欲を捨てたものであり、もはや、彼らの遺書、遺言、エピソードはこれ以上のことは語れないほどに心に響くものとなっています。あの時代に戦かわれ、散華された全ての軍人、軍属の方々を、この特攻隊という一つの史実を知ればしるほど、忘れ去ってしまうということはできないのです。最後に、このエピソードを述べましょう。海軍報道班員であった山岡荘八氏が特攻隊に志願した西田高光中尉(飛行予備学生13期、大分師範学校卒)に「負けても悔いはないのか?」と聞いたときの中尉の返答です。「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・・・・・おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・・・・・」

なお、これらは神風KAMIKAZE TOP PAGEを参考とさせていただきました。当HPにはここで述べた以外にもまだまだたくさんの特攻隊として散華された方々の遺書、遺言、エピソードが展示されております。当HPの管理者のHP立ち上げに感謝すると同時に現代を生きる日本人の一人として、多くの方々に知ってもらいたく、ここにて紹介させていただきます。(合掌)

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朝鮮半島に風雲前夜、末は「革命」か「解放」か

2004年12月1日付けの中央日報からの記事です

「北朝鮮亡命政府を来年日本で樹立」


韓国、中国、ロシア、モンゴル、カザフスタン、日本にいる北朝鮮の党・軍・政幹部出身脱北者らが、先月19、20の両日、東京で「反金正日(キム・ジョンイル)国際会議」を開き、早ければ来年3月にも日本で亡命政府を発足させるという計画を明らかにした。

これら脱北者らは特に、黄長燁(ファン・ジャンヨップ)元労働党秘書(81)を北朝鮮亡命政府の代表に推挙する方針を自由アジア放送(RFA)で明らかにし、黄氏の反応に関心が集まっている。

黄氏は97年に韓国に亡命して以来、北朝鮮の民主化に対する所信を主張しており、知名度も高いため、今後、北朝鮮亡命政府が樹立された場合、首班になる可能性が最も高い人物に挙げられた。

しかし黄氏は現在、亡命政府の樹立には原則的に反対しているという。 黄氏のある側近は「黄元秘書は韓国を北朝鮮民主化の基地とすべきで、亡命政府は必要ないという考え」と伝えた。

2004.12.01 20:34

もし、これが本当であるならば「救う会」も黙ってはいないと思われ、日本でも北朝鮮に対して更なる動きが求められることでしょう。

北朝鮮をどうすべきか、北朝鮮の内部を知りつくした強力な団体を日本はどのように支援するか。最低でも政府は対北朝鮮のために、いや、せめて「救う会」にもこの亡命政府を家族を救うための重要な協力者として期待するべきか。

私個人としては日本海に波濤が立つことは望ましくありませんが、北朝鮮という問題政権が存在する以上はその近くでの漁業操業をさせておくわけにもいきません。

この亡命政府は北朝鮮をどうする方針なのか。彼らの目指すものは、「革命」か、それとも同胞を救うための「解放」か?救う会、そして北朝鮮への問題の早期解決を目指す方々のこれからの彼らの動きが北朝鮮への大変化をもたらす力が現れる可能性が極めて高いことは無視できない。

亡命政府が行き着く先は、北朝鮮の「革命」か、それとも同胞を救うための「解放」か、日本よ、新たな対北朝鮮への進展のために今後の彼らに注目するべきである。

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電脳日本の歴史が燃える!

 ここで面白いHPがあるので紹介させていただきます。その膨大な資料があることから私としては新しくリンクに追加すること決めました。

 さて、そのHPとは電脳日本の歴史研究会というもので、松尾一郎氏主宰の日本近現代氏を取り扱ったHPでもあります。松尾氏自身も光人社出版の「プロパガンダ戦『南京事件』」という著書を出版しては業界では話題となっています。

 当HPでは何に注目すべきかというと、最近連載されている集英社の漫画雑誌、ヤングジャンプで書かれている本宮ひろ志氏の漫画、「国が燃える」で南京事件が取り上げられたのですが、これを当HPが徹底的に批判しております。

 小林よしのり氏の戦争論が第三部まで出版されては百万部を超す売り上げが続いているにも拘らず、相変わらずの戦争に対する批判的内容。そりゃ、軍の不条理、非合理はあったのでそしょう(いまでも社会にはいっぱいあるが)。まあそれは除いて、本宮氏をはじめとする、名漫画家やヒット作などに限って、日本軍を取り上げるときは日本軍の批判が多いのはなぜなんでしょうかね?

 「美味しんぼ」の作者でもある雁屋氏も天皇陛下を批判する漫画の作成に加わっていますし、朝鮮人関連の歴史でも日本を批判していたりします。グルメ漫画で支那料理を度々取り上げているのに台湾を無視したりと旨い物好きには物足りなくなってきていたりしますし、なにか裏があるのでしょうかね?

 本宮氏は本心どう思っているのか知りませんが、なにか裏があるのでしょうかね?小林よしのり氏のように全面的に押し出すような方でないと、近現代氏を漫画として描くのは無理があるのでしょうね。

 これがマイナー誌であれば問題ないのですが(それでも十分あるか)、今回の「南京事件」は名漫画家による、メジャー誌での登載ですのでちょっと始末に終えませんな。まあ、当誌は1980年代前半から結構名作などで日本軍を批判的に取り上げていましたのでこの用に書かれていてもなんら不思議はないのですが、編集者が全共闘や民青が活発に暴れていた時代の方々なのかしら(^^;)

 とにもかくも、小林よしのり氏以外の漫画では相変わらず、名作家、無名作家問わず、自虐が横行しているのが現状というもので、戦争論に続く、日本近現代史漫画はもう現れないのでしょうかな。戦争論が大ヒットしたときはこれに続く漫画が続々と出てくると期待した私の的はおお外れだったのか、いまだに似たような漫画はみられましぇん(--;)

 すくなくとも、南京事件を取り上げるなら、扶桑社出版の「新しい歴史教科書」の295頁にも書かれているように、「この事件の実態については資料の上で疑問点もだされ、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」と書けばそれで済むものを、わざわざ一話を使ってここまで取り上げてしまったからには後には引けなくなってしまった本宮氏。あるいみ気の毒ですな。

 作品を読んだ限りでは当時の日本刀で数珠繋ぎになった連行者を次々と切っていくのですが、これは当時の刀では致命傷を負わすことは不可能だそうです。Googleで「軍刀」と探索すると私が参考にしているHPが一番初めに出てきます。そこで当HPを調べていくと、参考になる個所を発見しました。このHPによりますと、軍刀は日本刀同様、扱いが大変難しく、当時の日本軍将兵も大半が刀に関しては扱いが素人だったそうです。日本刀はよほど練習をしていないと致命傷を与えるほどに動く人は切れませんし、人を切ったならばすぐに血液や脂が付いて切れなくなるのだそうな。ましてや代わりの刀なども日本軍将兵は持っていませんし次々ときっていくのは不可能ですな。

 また、南京は大変寒い場所で崩落した当時も真冬で軍民問わず、みな大変な厚着をしていました。刀の場合は振り回すようにきったとしても厚い生地が切れるだけで肉まで届かず、仮に届いたとしても致命傷にも何にもなんないのだそうです。まあ、冬の寒さと厚着、日本刀の貧弱さを考えれば容易に考えられることですがね。あと、機銃掃射をするシーンも漫画で見られますが、これは「幕府山事件」のパクリで実際は民間人ではなく、暴走して日本兵に襲ってきた捕虜に対する射殺が真相なのですね。このばあい、日本軍にも多数の死傷者が出ていますから、違法にも虐殺にもなりませんが。

 南京事件、いまだに「一般人の虐殺」だそうですが、残念ながら、刀でばったばったと切っている日本軍将兵を書いている時点で完全な「SFギャグ」というのが結論でしょうな(--;)

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実に好いフラッシュを発見しました

実は言うと、このブログの紹介でも「国防問題を中心とした課題を取り上げ」ると書きましたので、少しはそれ関係のものも書かなければいけないと思いました。

そこで、ここにちょうど完成したフラッシュを紹介いたします。

題名は「大日本帝国の最期」で第壱幕から第参幕までの長期フラッシュです。大東亜戦争が終戦を迎えて59年が過ぎ来年で60年目を迎えます。さらには日本国が主権を回復してから52年、沖縄が本土に復帰してから32年が過ぎました。

黒船来航による砲艦外交、開国からはじまった日本の近代国家建国から、大東亜戦争とそれに続く極東裁判に至るまでに命を散らした英霊が眠る靖国神社に現在日本国家の首相が公式に参拝できない様はとても見れない惨めな様ですし、靖国神社の存在そのものを批判するマスコミもまた、「愚か」の一言に尽きるでしょう。

通常であれば、わが国の首相がわが国の先祖に感謝しつつ、わが国が築き上げた文化、文明の基盤の上に成り立っているという自覚があるならば、終戦記念日の8月15日に、主権が回復した4月28日に、そして沖縄が復帰した 5月15日にも靖国神社に参拝するべきなのです。なぜなら、沖縄をはじめとする日本国の復帰は近代国家の発展において命を散らした英霊の上に成り立っているからなのです。

いつか、北方領土にわが国の主権が完全に回復する日が来るならば、そのときは千島でわが国のために戦った方々のためにもまた、首相の公式参拝を始め、国民も靖国神社に参拝するべきでしょう。彼らが戦わねば、北海道もどうなっていたのか。

なお、ここに第弐幕から第参幕までのURLを登載しておきます。

http://www31.tok2.com/home2/teiteitah/emp_jp-1.swf
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http://www31.tok2.com/home2/teiteitah/emp_jp-3.swf

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