日本のマスコミとは比べ物にならないくらいに親日だった戦争記念館
捕鯨関連はこちらでは有力な情報がなかなか手に入らないので当分の間は休止しようかと考えています。申し訳ありません。(^^;)。しかしながら、南方の豪州に滞在し始めて早一年が過ぎようとしています。もうあと一年でこの御国とおさらばとは早いもので、たまった話をここでまとめてみようかと思います。
さて、海外滞在の第一弾として戦争記念館を掲げようかと思います。近年もまた、マスコミらが国内の靖国神社について馬鹿騒ぎをしておりますが、これらのお方は豪州の戦争記念館についても「戦争賛美だ」「戦犯が云々」なんていい始めるのでしょうかね?それだったら大した者だと思いますが、事実上宣戦布告のようなものなので、ほめられたものではないということに変わりはありません。
さて、豪州の戦争記念館は首都キャンベラにあります。シドニーからバスで西へ片道3時間ほどでいけますので、シドニーからの日帰りも可能です。もっとも、この計画は誤算そのものであることが戦争記念館について思い知らされることになりましたが。この戦争記念館には豪州建国以来に豪州が参加した戦争についての説明とそれに纏わる戦史や豪州やその同盟軍、および敵国として戦った国の兵器も展示されております。そして当然、陸海空軍および豪州軍が参加した各戦闘の記念碑が立てられています。写真は朝鮮戦争の記念碑です。
今回ここを訪れた理由はこの記念館に昭和17年、シドニー湾に停泊する米豪連合軍の艦隊を攻撃するために進入し、散華された日本海軍の特殊潜航艇が展示されているという情報を得ていたからです。以下のHPにも詳しく書かれていますがシドニー湾で戦死した特殊潜航艇の乗組員に対する勇気を称えようと当時の豪軍司令官グルード少将が海軍礼装を行い、乗組員の遺骨が戦時中であるにも拘らず日本に輸送したことは戦時中の日豪を語る上であまりにも有名な話であったりします。
特殊潜航艇 戦史 シドニー湾攻撃http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/toku-matuo.htm
南半球ですので当然、今の時期は冬なのですがキャンベラもシドニーを予想以上に寒く、当写真を見ればわかるかと思いますがまさしく冬という感じで気温も10℃くらいととても長袖のトレーナー一枚では耐えられるものであありませんでした。つくづくオーストラリアというと「熱帯」というイメージが強かったのですがつくづく読みがあまったのだと思わざるをえません(--;)
寒さに耐えながら戦争記念館に通じる大通りに到着。どちらかというと靖国神社の参道に似ていますがかなりだだっ広く、自動車道となっているところに違いがあります。そして記念館の正面にある碑ですが写真でもわかるとおり、日本語に訳せば「今後も彼らの名は永遠に生き続ける」と刻まれています。
そして記念館へ入ろうとすると小学生から中学生の子供たちが集団で見学のために訪れていました。これが日本だったらどうなるのでしょうね?靖国神社の近くにも学校が幾つかあったと思いますが、このように遊就館に集団で見学に来る学童はいままで見たことがありません。広島や長崎の原爆資料館とはずいぶん対照的だったのを覚えています。
そして中に入ると寄付金が置かれていています。神社でいう賽銭箱というやつでしょうか。もちろん、手を合わせて願うところでもありません。そして戦争記念館への入館料は無料です。実はここで記念館の係員に当記念館で展示されているシドニー湾に突入した特殊潜航艇および、日豪そのほかの戦闘について見学しに来たという目を説明したところ、驚く事にガイド付きで説明、案内してくれるということになりました。
ガイドさんの説明は丁重に日豪について説明してくださり、潜航艇にとどまらず、零戦の優秀性(驚いたことにそこには日本海軍航空隊の零戦搭乗員であり撃墜王でもある坂井三郎の登場していたとされる零戦も復元されて展示されていた。さらに驚くことにガイドさんは坂井三郎の戦史まで詳しく知っていて私に教えてくれた。)当時の日本が置かれていた現状(ABCD包囲陣によって封鎖されたこと、第一次大戦での英豪への協力など)、さらには捕虜や占領下での帝国日本軍と豪州人とに関する史実。どの話にも中朝韓の主張する「反日」など微塵もなく、そこにはあらたな豪州の日本軍に対する敬意と海外から見た大東亜戦争を知ることができたと思います。
よく、捕虜処刑としてあげられる写真がありますが、ガイドさんの説明によると、この処刑された豪州兵はスパイであったということです。スパイ行為の場合は捕虜の扱いを受けることができず、処刑の対象となり、日本も日露戦争の時にラマ教徒に扮装した日本軍人がロシア軍につかまり、処刑されています。この写真の豪州軍軍曹、レン・シフリートは日本兵、ユノメ クニオで戦死した日本軍将校の遺物から発見されたのがその写真であり、クニオ氏の日記に書かれた内容とも一致していたために戦後、「戦犯」として処刑されたとのことです。ガイドさんによるとシフリート軍曹を処刑後、彼の埋葬地に花を据えたのもクニオ氏であり、軍曹の勇敢さを称えたとのことです。ガイドさんの説明で幾分か自分が救われたような気がしてなりませんでした。
と同時に異国の地で無念の死を告げたのはなにも日本人だけではないのだとも改めて認識させる出来事でもありました。戦後、軍曹の戦没場所を遺族らが探索しましたが現在になっても確認されていないとのことです。
そして、いよいよ特殊潜航艇ですが、この潜航艇は戦闘終了後に引き上げられた2隻の後半分と前半分を繋ぎ合わせて復元されたもので中心部分の真下に大きな穴が作られていて下から内部を見ることができます。展示場所が映像を写して当時の戦闘を説明する映写展示室なのでかなり暗く、さらに特殊潜航艇も黒色なので写真ではわかりにくいかと思われますが、特殊潜航艇は記念館での最も重要な展示物として扱われていました。この特殊潜航艇についての説明も映像、音声付で靖国神社の遊就館での日露戦争の説明顔負けの大演出でもありました。
このほかにも日豪両軍の激戦地となったココダ道の戦いやそのほか、豪州から見た大東亜戦争の展示を見学したあと、シンガポール占領下での豪州民間人についての展示がありました。ガイドの説明によれば、シンガポール陥落後、豪州人も日本軍占領下の元で収容所に入れられたのですが、そこでは生き別れとなった豪州軍の家族が収容所ないで物質不足と文通、流通の制限のした、手紙の代わりにキルトにメッセージなどを縫うことによってお互いの安否を確認したとのことです。そして、その一部は日本軍にも送られ、ある形での交流もあったとのことです。占領下での収容所のなかで日本軍にも話のわかる人がいたからこそ生まれた交流であり、これもまた初めてしる、連合軍から見た日本軍像でもありました。写真は現存する収容所ないで女性らがつくったキルトです。
さらに驚くことに日本軍の神風特別攻撃隊の遺書まで展示されていました。もちろん、英語に訳されています。

また、戦後の「戦争裁判」と「戦犯」についてもかなり客観的で無罪であるにも拘らず、有罪と認定されて処刑されたという説明までされています。現在「戦犯云々」で首相の靖国神社公式参拝になん癖をつけているマスコミはこれをどう説明するのでしょうか?さらには原子爆弾の投下も当事者ではないのか、説明も「戦争を早めるための必要な手段であったか、それとも違法行為であったのか現在も論争中である」とこれまた客観的で被爆者の悲惨な写真や破壊された町の残上まで映像つきで展示されていました。それを食い入る様に見ていた豪州の少年の姿はこの原爆に関する展示とあいまってかなり印象的な出来事でした。
最後に、豪州記念館で短時間であるにも拘らず、細かいところまで説明してくださったガイドさんには大変感謝いたします。また、シフリート軍曹、およびヒノメ氏の説明をする際、まちがった知識を言ってしまって申し訳ありませんでしたm(_)m。知識があってもこういった常識を踏み外してしまう行為をみるとやはりまだまだ、未熟者なのでしょう。さらに他国といえど、かつての敵国といえど、自国を守るために命がけで戦ったのはなにも日本に限らず、それは他国も同じであったこと。そして悲惨な戦闘を経験したのもまた、日本だけではなかったこと。これら英霊に対する敬意を払うというその精神が自分にはまだまだ足りなかったなと改めて思いました。また、記念館の一部のみしか見学できなかったのも今回の旅行の失敗だったと思います。次回は一日かけて豪州の戦史を見学してみようかと思っています。
最後は戦争記念館を正面から移した写真と、戦争記念館から見た参道の写真を展示しておきます。
祖国を守るために立ち上がり、そして散っていった英雄よ、永遠に(合掌)
おまけ
玉砕は日本軍の専売特許にあらず、緒戦の豪州軍にも見られた行為であり、このため日本軍は米英蘭に苦戦することがなかったものの豪州軍には苦戦し、手痛い損害を受けることになったとのことです。よって豪州軍には特別な敬意を払っていたという話も残っています。
オーストラリア軍の勇戦を讃えた日本軍
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/nikkan_696.htm
昭和十六年(一九四一)十二月八日、大東亜戦争開戦とともに、日本軍はイギリスの植民地であり、アジア支配の一大拠点であったシンガポールをめざしてマレー半島を南下しました。それは破竹の進撃であつて、翌年の一月末にはシンガポールの対岸ジョホールバルにまで達しました。英国軍に所属するオーストラリア軍は、ジョホールバルの東にあるシェマールアンで、必死の抵抗を試みました。 シンガボールの中学二年用教科書(Social and Economic History of Modern Singapore)は、その時の模様を次のように書いています。〈オーストラリア軍は、武装を完全に整えて日本軍に対して戦闘体制に入った。ところがその時、半裸の村民たちは(日本軍に味方して)、オーストラリア軍に敵対してくる事が判った。そこでオーストラリア軍は決死の覚悟を固め、激しい戦闘の果てに二百人がすべて戦死した。この戦によって日本人の戦死傷者は、一千人に達した。日本兵やその指揮官たちは、オーストラリア兵の勇気に感激した。彼らは敬意を表すために、二百人を葬った墓地の上に巨大な木製の十字架を建てた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』と書かれた。〉









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