「昔の日本人は、海岸部の特殊な地域は別としてクジラなんかは食わなかった」(余丁町散人 橋本尚幸) ‥‥この発言はホントにお止めになった方がいい!
えー、久々にご隠居さんのところをご拝見いたしましたこところ、案の定またもや依然と似たような主張を続けていました。これはクジラでもおんなじなんですが、どうやら小泉武雄氏を批判したいが為に、鯨肉に八つ当たりしているという大変お見苦しい発言をしなさっているようですな。まあ、ご自身の経験と直感だけで発言しているのですから無理もない話しなのですが、他人は違う経験と知識の上に成り立っているという感覚が、肉ばっかり食う悪食なアトキンス・ダイエットをやっている内になくなっちゃったのでしょうかね?
クジラと日本人についてある程度しっていれば、ご隠居さんの記事をスルーしてもいいのですが、何も知らない人が読めばどこがおかしいのか明確に分からない場合があります上に、反捕鯨者も似たような理論で多くの国民が支援している鯨食文化の普及と商業捕鯨再開の妨害ともなりかねませんので、あえて以下のご隠居さんの記事を引用いたしましょう。それがこの記事です。
余丁町散人(橋本尚幸)の隠居小屋
「クジラをおかずに、あっという間にご飯三杯」(小泉武夫)‥‥ホントにお止めになった方がいい!
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C882254707/E20061109202458/index.html
今晩の日経「食あれば楽あり」コラムで小泉武夫さん。クジラはうまいと牽強付会されているが、無理があるように思う。また、ご自身も健康診断を受けられた方がいい。食糧難であった当時、クジラのベーコンが食べることができたとはよほど恵まれた家庭だったのでしょうな。私の母の場合、クジラのベーコンを食べることができたのは父親(私の祖父さん)だけでした。からし酢味噌か酢味噌をつけて食べるんですよね。この用に食べなきゃ、カツオの刺身に醤油も薬味もつけずに食べるのと同じなんですよね。クジラのベーコンって。これしか食べられないも何も、食糧難の時代はクジラは基調であったことに変わりはありませんし、その後も高度経済成長を達成するまでに需要が伸びていったことからクジラは国土の狭い日本において貴重な蛋白源であると同時に国民が好きだったからこそ食べ続けてこられたのですね。安くてうまいということから。もしかして、ご隠居さんは関西に住んでいながら、関西で自慢の一つとされるクジラのハリハリ鍋やコロおでんも知らないのでしょうかね?このほかにも刺身から竜田揚げから様々な料理が作れるというのにそれすら無視とはいはやはなんとも工夫がない料理で(--;)。もしかして、ご家庭が見え張るために、あえて高級なベーコンの身をやって、庶民の味なんか味合わせなかったのでしょうか?マグロで言えば、トロばっかり与えて、「これしか蛋白源がない!」なんていっているのと同じで、本当に哀れなご家庭にそだられたものだとつくづく思いますな(--;)というわけで、クジラの料理法と利用法については以下のHPを参照してくだされ。
クジラは小さいときにしょっちゅう食べた。それしかタンパク源はなかったから。給食は言うの及ばず、学校から帰ってからのおやつもクジラのベーコンを挟んだサンドウィッチだった。当時はこれがとても美味しいと思った。でも、懐かしいなぞとは全く思わない。これしか食べられなかった悲しい時代を思い起こすだけだ。
クジラ利用図・ヒゲクジラ
http://www.e-kujira.or.jp/gahou/nagasu.html
クジラ利用図・歯クジラ
http://www.e-kujira.or.jp/gahou/makkou.html
調理例はこちらです
美味しいクジラ料理はいかがですか?
http://www.whaling.jp/info/pamphlet/pdf/ikaga.pdf
まもって、食べる。Let's Cook!! 1
http://www.e-kujira.or.jp/card/recipicard.pdf
まもって、食べる。Let's Cook!! 2
http://www.e-kujira.or.jp/card/recipi2.pdf
ちなみに、現在でも可能なクジラ料理法はクジラポータルサイトの「今週の鯨料理」として毎週、様々な鯨料理が紹介されておりますので、機会があればお試しになってはいかがでしょうか?
たまにイナカからおばあさんがやってきて、その度に風呂敷いっぱいの食料品をもらった。戦後の都市部には食料がなかったから、とてもうれしかった。ある時ウグイのみそ焼きをたくさん持ってこられて、こんなにうまいものは食ったことがないと大喜びで皆して食ったものだ。おばあさんは、イナカではあまり珍重されない魚だけれどと、なんか都市住民を気の毒がっておられるようだった。うちには親戚に農家が居たことでみな飢えなくてすんだことは感謝しているが、そういう親戚がなかった家族の多くは飢え死にをした。食料はあっても親戚とかお友達にしか回らなかったのである。こういう時代に戻してはならない農民に依存して食料を食べさせてもらったくせに、その恩を返さずに農民叩きですか?いやはや、これほど恩知らずなお方だからこそ、肉ばかり食べるアトキンス・ダイエットに没頭できるのでしょうかね?しかも、ウグイだって無限にあるわけでもない上にバスやブルーギルによる捕食の危険性も出てきているというのにそんな料理も守らず、バス釣りに楽しむとは人間の風上にも置けない経済豚であることが目に見えて分かりますな。さて、本題です。
昔の日本人は、海岸部の特殊な地域は別としてクジラなんかは食わなかった。京都の伝統料理にもクジラはない。戦後の食糧難時代にやむなくとられた国の政策で国民はいやいやクジラを食べたにしかすぎない。それをエコロたちは「クジラこそニッポンの伝統文化だ」と主張する。笑止千万。だったらオットセイ(トド)やクマ肉ももっと珍重するべきだろう。あっちの方がよほど縄文文化に密接に関連した伝統食材だ。クジラが「ニッポンの伝統食生活だ」と主張することは、「終戦直後に酒の代わりにみんなが呑んだエチルアルコールや人造米(コメ以外の穀類から工場で作ったコメみたいな食品)こそニッポンの伝統食文化だ」と主張することに似ている。うーん、交通がまったく発達していない縄文時代にまで遡らなければ成り立たない乱暴な意見ですな(--;)。神奈川県横浜市金沢区の称名寺貝塚からイルカや鯨の骨が出土するは、三内丸山遺跡、真脇遺跡などからも大量のイルカや鯨の骨が出土していることから9000年前から鯨肉が食されていることが照明されているのですな。このころから各地域の遺跡から鯨が食べられていたという証拠が見つかっているというのに言ったいつからこれら遺跡で有名な地域が「海岸部の特殊な地域」になったのでしょうかね?
そして、肝心の京都の伝統料理ですが、天皇陛下をはじめとする貴族がすむ、京都では鯨も鯉とおなじく大変高級品だったので貴族が親しむ京料理としても鯨は欠かせない食材であったようです。
捕鯨 - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761572529/content.html
古代・中世の捕鯨についてははっきりしない点もあるが、室町時代(1333~1466)の調理書「大草家料理書」には鯨肉がのっており、同時期の「四條流庖丁秘伝書」には、クジラはコイとならぶ高級魚としるされている。いったい、いつから天皇陛下が自ら立案した四條流が京都をはじめとする伝統料理じゃなくなったのですかね?このほかにも室町幕府のお抱え料理人がまとめた料理書である「大草家料理書」にも鯨が記載されていることから、一部の沿岸地域どころか立派に京都にすむ、貴族の方々に親しまれている料理として存在していたりします。
四條流庖丁儀式(しじょうりゅうほうちょうぎしき)
http://www.sushiiwa.com/specialist.html
今からおよそ千百年余り昔のこと、料理に深い造詣を持たれた時の五十八代光孝天皇は、自らの命により様々な料理をまとめ、後世に伝えたとされるのが四條流の祖といわれる四條中納言藤原朝臣山陰卿でした。このほかにも平安中期に書かれた日本最古の辞典である「倭名類聚抄」に書かれている保存食品「阿良萬岐(あらまき)」の材料としてクジラの肉がタイや鮭、鹿の肉とともに登場し、同じ時期に書かれている「日本書紀」にはハセクジラの記述と同時にその捕鯨方法まで記されています。このことから海岸から遠い京都ではニシンや鯖など、ほかの保存食品同様、クジラも保存食品として親しまれていたことが分かります。また、戦国時代においても「当代記」によれば豊臣秀吉が宮中に参内したときに出された料理に鯨がだされたことが記されていることから、りっぱな貴族の料理であり続けていたことが分かります。よって、これらの資料を調べる限りでは「京都の伝統料理にはない」というのは真っ赤な大嘘なんですな。それとも、ご隠居さんのいう「京都の伝統料理」って「米」だけなんでしょうかね(^^;)
烏帽子、直垂をまとい、庖丁とまな箸を用い、材料に一切手を触れることなく、鯉、真鯛、真魚鰹などを調理する「庖丁儀式」は、光孝天皇の時代(平安時代)から朝廷を始め、貴族社会の人々により、宮中行事の一つとして行われてきました。古式に則った所作とその庖丁さばきは、日本王朝時代の古典文化生活の一表情と日本料理の伝統を今に伝える厳粛な儀式です。
さて、もともと貴族や武士階級の身に親しまれていた鯨でしたがこれが捕鯨と江戸時代における捕鯨技術と交通の発達によって庶民の間でも親しまれる食材となってきます。そして、この庶民にまで普及した鯨が現在に至るまで絶えず日本人にとって欠かせない食材として定着して今に至るわけです。
御覧のように江戸時代においても初期においても鯨は上流階級の食材でした。それもそのはず、鯨は小型鯨類を含めてだれでも簡単に獲れるような獲物ではありませんし捕鯨砲や遠洋捕鯨における船上での加工技術が開発されていなかったのですから生産数も極めて限られたものであったことは当然です。また、鯨類においても海上において回遊してきた鯨を仕留めるわけなのですが、種類によっては仕留めた跡に沈んでしまう種類と浮いてしまう種類が存在し、ナガスクジラ、ミンククジラ、イワシクジラ、ザトウクジラなどのナガスクジラ属は前者に、セミクジラやホッキョククジラは後者に値します。よって、古代の捕鯨方法においては仕留めた後に沈んでしまうクジラは捕獲対象から外さざるを得なかったのでこれがまた鯨肉の生産に制限を表していたわけなのですな。しかし、これらの問題も江戸時代、16世紀後半における突き捕り式捕鯨の開発とそれに続く網捕り式捕鯨方法の開発によって改善され、鯨肉の生産量は急速に伸ばしていくこととなったわけです。突き捕り式捕鯨とはそれまでの追い込み漁業や座礁クジラを捕獲する方法から海上に泳いでいるクジラに銛を打ち込んで仕留める方法で、最初に開発されたのが知多半島であり、これが実行されたのが尾張の内海であるということです。そして網獲り式捕鯨方法とは太い頑丈な縄(最終的には沖縄産の麻が縄の原料として使われた)がクジラの頭部に網を被せてクジラの動きを止め、さらにそこに銛を打ち込んで仕留める方法です。これを使用し始めたのが熊野(現在の和歌山県太地)鯨を専門に仕留める組織である鯨組でこの方法は後に突き捕り式と同様、全国に伝達され、南は九州の長崎から北の北海道に至るまで伝達されるようになりました。なお、突き捕り式は主に北海道南部と関東の房総半島一帯に、網捕り式はそのほかの地域に伝達されたとのことです。
この捕鯨方法の急速な発展と江戸時代における流通経路の安定、および発展が各地における捕鯨、鯨加工品、および原料生産を専門とした組織、鯨組の誕生とあいまって急速に鯨肉の生産量が向上し、全国に広まっていくことになります。この日本国内における捕鯨文化、および文明の発展という結果は文化・文政(1804年~1829年)における庶民への鯨肉の普及という形で現れることとなったわけです。このころになると江戸を含む主要都市の膨大な消費者(当時江戸は世界最大の人口を有する都市であった)に提供するだけの鯨が足りなくなり、そこでそれまで主に消費していた表皮のほかに各部位の肉から内臓に至るまで各種における鯨の調理方法を発展させていくことになります。この結果、鯨の主な供給地の一つであった長崎の平戸で鯨料理の専門書である「鯨調味方」なる書物まで1832年に出版するに至ったわけです。なお、この時、鯨を専門に売る「鯨売り」が都市において鯨を売っており、江戸をはじめとする都市住民も現在の7~8倍の鯨を食べていたという計算がその当時の資料から明らかになってきているということです。ここまでくればもはや、「一部の地域の食い物」ではないことは明確ですな。まあ、現在でも鯨料理の専門店に行けば気軽にうまい鯨料理が食べられますので、そこで伝統料理か否か、即座に判断できるのですが、アトキンスな馬鹿をやる悪徳商人には無理な話せであることはこの場で断っておきます。
さて、このように鯨の供給を支えてきた網捕り式捕鯨、および突き捕り式捕鯨ですが、米国のペリー提督が浦賀に来航するころには衰退してしまいます。なぜなら米国の船団が鯨油生産のために鯨を乱獲してしまったからです。このため、日本近海に回遊してくる鯨が激減し、ペリーが日本に来航するころには米国の乱獲がたたって日本の網捕り式捕鯨に懸かる来航する鯨はほとんどいなかったわけです。また、ペリーが日本にまで来航し、港を無理やり開港させたのも、捕鯨する際に捕鯨船団の停泊地として日本を使用したかったことが重大な目的の一つとしてあげられています。
江戸時代が終わりを告げ、明治時代に入ると網捕り式捕鯨をはじめとする鯨の捕鯨方法は全国規模で廃業に至り、日本も欧米列強との競争に遅れを捕らないことから現在の捕鯨方法の基礎ともいえる近代捕鯨を導入することになります。そして、明治32年に近代捕鯨の技術を導入した水産会社が捕鯨を日本で始めることとなります。この時導入した技術は日本同様、水産物の消費が盛んで捕鯨も盛んであるノルウェーでした。近代捕鯨の導入によって捕鯨を続けていた日本において、その蛋白源も牛、豚などの肉が食材として取り入れられたにもかかわらず、庶民においては親しまれていた食材だったようです。その証拠として、明治20年、1月3日の朝野新聞の記事に高地で捕れた鯨を東京で販売したところ、完売の日々が続くという記事が登載され、大正13年の神戸又新日報では牧場が狭い日本では養鯨場を設置し、鯨肉を食べて鯨乳を飲むべしという記事が登載されたほか、大正8年7月27日付けの北海タイムスでは、農商務省が肉の値上がりを抑えるために鯨肉を安く提供という記事が書かれています。当時は鯨肉が栄養面で優れていることを掲げた上で、牛肉の5分の1以下の安い値段が戦前における日本国内で鯨肉が庶民の間で親しまれ続け、調理方法も牛肉などより発展させていった要因であると思われます。
昭和9年に南氷洋でも捕鯨を始めた日本も大東亜戦争の会戦によって戦後の昭和21年までの間、一端、捕鯨産業を停止させます。米国、GHQの占領下に置かれた日本には遠洋漁業を行えることなどできず、ましてや戦争による膨大な被害によって壊滅状態の国内生産力と引揚者による急速な国内人口増加によって害チン獲得もままならず、国外からの食料購入なども不可能な状態であり、全国的に食糧難の時代を迎えることとなってしまいました。そこで昭和21年にGHQが食糧難の解決の手段として日本に遠洋捕鯨の許可をだし、これによって鯨肉が食糧難を救ったわけです。
このように戦後、早々と復活し、各地における捕鯨基地も活気を取り戻したのですが、日本の捕鯨産業も世界各国における捕鯨による鯨の乱獲と鯨油に台頭する石油産業の普及によって鯨食文化を有しない国及び、鯨肉を日本に輸出しない国は1960年代から急速に捕鯨上から手を引くことになります。さらには1970年代において米国におけるベトナム戦争による国民の不満をそらさせるために「鯨の擬人化、神格化」がはじまります。これが十年後に「商業捕鯨全面禁止」という形ででてくるわけですが、日本は鯨の食文化が全国的に普及していたことから、研究において大規模な予算が必要とする、鯨を捕獲して調査する調査捕鯨を続けることによって鯨における最先端の研究を北欧の捕鯨先進国、ノルウェー、アイスランドともに打ち出し、世界的にその成果が認められ、鯨類研究のもっとも進んだ国の一つとして現在に至るわけです。ようするに、食習慣が国民に伝統料理として定着していなければ調査捕鯨も不可能であるというわけなのです。その証拠に鯨の食習慣がない国は日本、そのほかの捕鯨国を上回る鯨の研究を研究成果として見出していません。
笑止千万。だったらオットセイ(トド)やクマ肉ももっと珍重するべきだろう。あっちの方がよほど縄文文化に密接に関連した伝統食材だ。クジラが「ニッポンの伝統食生活だ」と主張することは、「終戦直後に酒の代わりにみんなが呑んだエチルアルコールや人造米(コメ以外の穀類から工場で作ったコメみたいな食品)こそニッポンの伝統食文化だ」と主張することに似ている。クマは鯨ほどに資源が豊富であったわけでもなければ仏教の伝来によって獣肉を食べることも禁じられていたわけですから鯨のように普及するはずがありません(猪は「山鯨」という名前で流通していた)。また、鹿や猪以上に捕獲が難しいクマをどうやって普及させるのやら(--;)。ちなみにクマは鯨のように全国に生息していません。トドやアザラシも北海道にしか生息していないのですから北海道から沖縄に至るまで広く回遊し、全国の海域のいたるところに生息している鯨類とは資源や流通事情、生息域からして普及させるのは大変に難しいことは少し考えれば分かることです。縄文文化を例に出すならば、熊、アザラシ、トドが先ほど述べた、鯨の骨が出土した貝塚から同等化あるいはそれ以上の量が出土してなければ縄文文化においても普及していたという証明にはまったくなりません。また、歴史上、鯨のように専門の調理書まで出版されるほどに普及していたとでも言うのでしょうかね?鯨をトドやオットセイと縄文文化を例に同等の食材であることを述べること自体「笑止千万」なんですよね。エチルアルコールや人造米は人工物なのですから食材として例に述べることはいかがなものかと思いますな。まあ、ご隠居さんにしてみれば化学薬品も食材もすべて人間にとっては有益な有機物に過ぎないという発想があるのでしょうな(--;)。だからこそ、アトキンス・ダイエットという味覚が麻痺していなければできない行為も平気でできるのでしょう。いやはや、舌が麻痺したに取って「薬品」も「食材」も同じ有機物らしい。ご隠居の主張することは、「終戦直後に酒の代わりにみんなが呑んだエチルアルコールや人造米(コメ以外の穀類から工場で作ったコメみたいな食品)人工物も自分がいままで「アトキンス・ダイエット」のために食い散らかした肉やB級グルメで取り上げた料理も同じ人間にとって有益な有機物、すなわち「食べ物」である」と主張することに似ている。







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